ジャン=ルイ・オーベール(JEAN-LOUIS AUBERT)は今も好き★フランスに『TELEPHONE』テレフォン(テレフォヌ)在り♪
★フランスのロック・バンドとして英語圏のロック・バンドに匹敵する最高のバンドであったテレフォン(テレフォヌ)。1976年の結成から1986年までの活動。1977年の1stアルバムを80年代に入ってから購入したのが最初の出会い、『革命児テレフォン』だった。メンバーはジャン=ルイ・オーベール(Jean-Louis Aubert)、ルイ・ベルティニャック(Louis Bertignac)、コリーヌ・マリノー(Corine Marienneau)、リシャール・コリンカ(Richard Kolinka)の4人。ジャン=ルイ・オーベールとルイ・ベルティニャックという2人の優れたギタリストが居た。私はメイン・ヴォーカルを担当するジャン=ルイ・オーベールが最初から好きで、解散後のソロ・アルバムも聴き続けている。ソングライターとしても好きだしあのお声がやはり好き!その上ルックスも良いし。
テレフォンは、かのジミー・ペイジも絶賛したというバンドでもある。歌われる歌詞はフランス語ながら英語圏のロックに引けは取らないバンドだったと想う。フランスのパンク・バンドともニュー・ウェイヴとも云われる時代の活動期間。今聴いても好きな曲は不変である。イギリスの同時代のロック・バンドと同じ感覚ですんなり聴けたテレフォンの楽曲はポップであり、殊にイントロから「わあ~!」っという感じの曲が多く嬉しく聴き入るのは今も変わらない。時に泣きのメロディーもあるのでたまらない。女性ベーシストのコリーヌの存在も欠かせない。解散は残念だったけれど、残された楽曲たちは色褪せないと動画を拝見し再認識できた。スタジオ盤としてはラスト・アルバムとなった1984年の『UN AUTRE MONDE』のタイトル曲(邦題は「夢にさよなら」)。切なく熱く響くのです♪
chouchouでした。
ピーター・ペレット(PETER PERRETT)★ ジ・オンリー・ワンズ(THE ONLY ONES)『ANOTHER GIRL, ANOTHER PLANET』1978年♪
★ジ・オンリー・ワンズ(THE ONLY ONES)が好き。私より店主の方がより好きかもしれない。とりわけピーター・ペレット(Peter Perrett)の醸し出す雰囲気や佇まいがたまらなく好き。何というのだろう...良い意味でも良くない意味でも「ナイーヴさ」とか「やさぐれ感」の中に垣間見られる悲哀のようなもの。内省的なものにずっと何かを感じて来た。キース・リチャーズの弟みたいなアーティスト&ギタリストが私は好きでもある。私の一等好きなロック・バンドはやはりローリング・ストーンズ!ストーンズが存在する限り誰もロック・モンスターを超えることなどできはしない。キング・オブ・ロックなのだから。どう考えてみても凄すぎる!ピーター・ペレットは嘗てキース達のドラッグ・ディーラーでもあったというお話も聞いたけれど違和感などない。そうした経緯も含め、けれど今56歳のピーター・ペレットのあの華奢な身体から放たれるスピリッツは衰えてはいない。
THE ONLY ONESは1976年から1982年までの活動。2007年に再結成。その間にも「PETER PERRETT IN THE ONE」(1996年)としての作品もあるし、THE ONLY ONESの前身のようなENGLAND'S GLORYでの作品も残されている。キース・リチャーズ、ルー・リード、ボブ・ディランの影響はその頃から感じられるけれど、THE ONLY ONESはパンク・バンドのようでそうでもないような。なのでパンク・ブームに乗れなかった。彼らにはパンク的なものもありながらどこかグラム・ロックなものも感じる。デヴィッド・ボウイやマーク・ボランというよりも、ボウイがとても影響を受けたシド・バレット経由のあの感じかな。あの高めの甘いヴォーカルも大好き!彼等の最も有名な曲は『Another Girl, Another Planet』だろう。1978年の1stアルバムに収録されている。後に、サイケデリック・ファーズとのカップリング・シングルとしてもリリースされていた。
古い友人から下の映像を教えて頂いた。カッコいい!70年代当時のライヴ映像。その下のものは1996年のバンド編成で、ついつい、若き美形ギタリストのジェイ・プライス(Jay Price)にも目がゆくけれど、やはりピーター・ペレットはカッコいい!!「カッコイイ!」ことに理屈は似合わない♪
★1978年のTHE ONLY ONESです!
★1996年のサングラス姿のピーター・ペレット!横の美形ジェイ・プライスも素敵です♪
chouchouでした。
エヴリシング・バット・ザ・ガール(EVERYTHING BUT THE GIRL)『NIGHT AND DAY(夜も昼も)』(コール・ポーターのカバー曲)(1982年)CHERRY RED
★EVERYTHING BUT THE GIRL(エヴリシング・バット・ザ・ガール)は、トレイシー・ソーン(TRACEY THORN)とベン・ワット(BEN WATT)のデュオ・ユニットとして1982年に「チェリー・レッド(CHERRY RED)」よりデビュー。コール・ポーターのカバー曲『NIGHT AND DAY』。EBTGのレコードはアルバム『EDEN』(1984年)を最初に買った。けれど、それ以前のこのデビュー曲と同年1982年にトレイシー・ソーンとベン・ワットはそれぞれソロ・アルバムをリリースされていた。私は女性ヴォーカル好きに既になっていたもので、ベン・ワットより先にトレイシー・ソーンのアルバムを聴くことになった。私の好きな女性ヴォーカルの系譜のようなものが時を経る中で脳内に存在するようになった。幾重にも重なり合うので整理がつかないけれど。アコースティックなサウンドと物憂げな儚さのような響きのヴォーカルはやはり大好き!フランソワーズ・アルディ以来の衝撃的な出会いはアリソン・スタットン。そして、トレイシー・ソーンという順番だったと想う。当時は「ネオ・アコースティック」というより「ニュー・ウェイヴ」作品として聴いていた。何の雑誌だったか覚えていないけれど、ニコ(NICO)がトレイシー・ソーンのヴォーカルを絶賛されていた。ご自分と似たものを感じるというような。それを読み、ますますトレイシー・ソーンが好きになった。そして、ニコが仰った言葉は今も私に投げかけたものとして刻まれている。そのソロ・アルバムにはニコが歌ったヴェルヴェット・アンダーグラウンド時代の曲『ファム・ファタル』がA面のラストに入っていた。CDだと中間となるけれど、この曲で終わりB面にレコードを返すまで、そして、針を置き聴き入る...この作業の中に私の想い出があるし、耳ではなく心にだけ聞こえる音や風景があるように想う。アナログ世代ゆえのことながら。
EBTGのお二人は1962年生まれ。結成当時、各ソロ・アルバムを作られた折は20歳頃。インディーズ・シーンから着々とメジャーに、世界的に人気を得るようになる。クラブ・ミュージックなサウンドに変化してもトレイシー・ソーンのヴォーカルは依然として在る。でも、80年代の楽曲たちの方が馴染んでもいるし、今も聴き返すのは初期の作品が多いです♪
chouchouでした。
ニナ・ハーゲン・バンド(NINA HAGEN BAND)『アフリカン・レゲエ(AFRICAN REGGAE)』(1979年)♪
★この『アフリカン・レゲエ(AFRICAN REGGAE)』は、ニナ・ハーゲン・バンドの1979年2ndアルバム『ウンバハーゲン(UNBEHAGEN)』のトップを飾る曲。ニナ・ハーゲンもまた音楽雑誌に載るお姿から興味本位にレコードを購入した。このアルバムの日本盤リリースは1980年でまだ廃盤になっていなかったので、自転車で買いに行けた。ボウイの70年代初期のアルバムが全く売っていない時期で、まだ中古盤屋さんという存在も知らない頃のこと。このお方がいったいどのような音楽なのか歌声なのか...気になっていたのだろう。
ビックリ!というのか初めて耳にする世界。「レゲエ」という音楽が在る事すら知らない頃だったし、このドイツ語でヨーデル風の巻き舌の歌声。ちょっと怪奇でもありキュートにも想えた。やっぱり、「ニュー・ウェイヴって面白いなあ!」って。ニナ・ハーゲンは1955年東ベルリンに生まれた。まだベルリンの壁が存在する頃に、波乱の少女時代を過ごしている。それも実の父親と2歳で別離(両親の離婚で)。その後、女優の母親は再婚され、少女ニナに新しい父親ができた。少女ニナ10歳。この作曲家でもあった父にたいそう影響を受けたようだ。嘘か誠か分らないけれど、禁断の恋人でもあったとか。年頃になり17歳で先ず俳優を目指し、その頃からバンド活動を始めていたという。けれど俳優学校の受験に失敗。18歳のニナは音楽学校に入学し優秀な成績で卒業。1976年に父親が国外追放となり、慕う父を追ってニナも東から西ベルリンへ。
西ベルリンにやって来てから好転してゆく。CBSレコードと契約しロンドンへ向かった。不思議なお方には不思議なお方との出会いもあるのだろう。それはジョン・ライドン(当時PIL)!このジョン・ライドンにかなりの刺激を受けたらしく、ドイツに戻ってバンドを結成。それがニナ・ハーゲン・バンドである。パンク~ニュー・ウェイヴ時代に於いて、ドイツからの初めて国外にも存在を認知されたお方でもある。ニナ・ハーゲンのあの過剰なファッションは内面の弱さやシャイな部分の裏返しでもあるように想っている。ただ奇を衒うためのものでは決してないと♪
chouchouでした。
XTCのデビュー・アルバム『WHITE MUSIC』(1978年)
★XTCは今ではアンディ・パートリッジしか残っていない。けれど、1977年から今日までニュー・ウェイヴ~ブリティッシュ・ポップ&ロックの中で孤高の存在バンドである。初期はライヴも行われていたようだけれど、次第にアルバム志向は強くなり、なかなかライヴを行わないバンドの一つとして認知していた。そんな私が最初に買ったXTCのレコードは『ブラック・シー』(1980年)なので、結構年月が経っている。リアルタイムは『イングリッシュ・セツルメント』(1982年)。なので、この2枚には思い入れが強い。そして、XTCには一枚の駄作も無いのでまた追々に。
少し経って、ニュー・ウェーヴのオムニバス・ビデオを友人に見せてもらったことがあった。その中にXTCの『THIS IS POP』が入っていて感動してしまった。動く映像はその時が初めてだったのだけれど、『ブラック・シー』に映るメンバーの雰囲気より、もっと若くてサウンドも違ったので暫くXTCばかり聴いていた時期がある(アルバムは結局全部揃えた)。アンディ・パートリッジに何か知的なものを感じたし、ポップなメロディなのにどこか変な魅力。今想えば、この1stアルバムである『WHITE MUSIC』は私が最初に聴いた『BLACK SEA』よりもキーボードがウネウネ・バンバンしていて面白い。2ndの『GO 2』まで在籍していたバリー・アンドリュースの個性は初期XTCサウンドに欠かせないものに想う。そして、このバリー・アンドリュースに興味を持ってしまったことで、名前がまだ混乱していた頃でもありバリー・アダムソンを知る(ニック・ケイヴ・ファミリーへとも繋がる)。
バリー・アンドリューズはXTCを脱退した後にシュリークバック、そして、ロバート・フリップ(キング・クリムゾン)率いるザ・リーグ・オブ・ジェントルメンのメンバーとなる。私はシュリークバックはよく知らないけれど、ザ・リーグ・オブ・ジェントルメンは好きだった。ええと...当時の私は表向きは「ニュー・ウェイヴ大好き少女」だったけれど、「隠れプログレ」でもあった。当店主と年上の友人との交流などによる。一緒にエコー&ザ・バニーメンのコンサートに行った友人たちには「なんで!?」という感じだったので、隠れになってしまった。そんな訳でロバート・フリップはボウイやイーノとの交流もあり作品を追っている最中だった。そして、そのザ・リーグ・オブ・ジェントルメンには、素敵な女性ベーシストのサラ・リーが居られた。彼女はギャング・オブ・フォーのメンバーの時期もある。
XTCの熱狂的なファンのお方は多い。私も好きだけれど、こんなお気楽者なので大した知識はない。でも、アンディ・パートリッジはポップ職人だと想うし、XTCは優れたバンドであると豪語したい。アルバムによってメンバーが随分変動してゆく。この1st時は、ヴォーカル&ギターがアンディ・パートリッジ、ベース&ヴォーカルがコリン・モールディング、ドラムスがテリー・チェンバーズ、キーボードがバリー・アンドリュース。プロデュースはジョン・レッキー。下の動画は貴重な1978年のライヴ映像です。ファンの方々も可愛いです!
XTC/WHITE MUSIC
1978年 UK VIRGIN
1 Radios In Motion
2 Cross Wires
3 This Is Pop
4 Do What You Do
5 Statue Of Liberty
6 All Along The Watchtower
7 Into The Atomic Age
8 I'll Set Myself On Fire
9 I'm Bugged
10 New Town Animal In A Furnished Cage
11 Spinning Top
12 Neon Shuffle
Guitar,Vocals - Andy Partridge
Bass,Vocals - Colin Moulding
Drums - Terry Chambers
Piano,Organ - Barry Andrews
Producer,Engineer - John Leckie
Photography - Dennis Morris
※2,4,8曲目はコリン・モールディングによる楽曲、6曲目はボブ・ディランのカバーで、その他はアンディ・パートリッジによる楽曲です♪
chouchouでした。
(以前書いたものに少し加筆いたしましたものです。)
素敵な動画★ジョセフK(JOSEF K)『IT'S KINDA FUNNY』(1980年)と映画『審判』 原作:フランツ・カフカ♪
★ジョセフK(JOSEF K)はオリジナル・アルバムをたった一枚だけ残してバンド解散してしまった。この『IT'S KINDA FUNNY』はアルバム『THE ONLY FUN IN TOWN』(1981年)にも収録されているけれど、7インチ・シングルとしても「ポストカード(POSTCARD)」より1980年にリリースされた。このバンドのメンバーがまた凄い!ヴォーカル&ギターはポール・ヘイグ(Paul Haig)、リード・ギターはマルコム・ロス(Malcolm Ross)、ベースはデヴィッド・ウェデル(David Weddell)、ドラムスはロニー・トランス(Ronnie Torrance)。スコットランドのエディンバラで学生の折に結成され、”出来ることはすべてやり尽くした”というような言葉を残してポール・ヘイグは直ぐにソロ活動に入る。大好きなレーベルの一つである「クレプスキュール」よりのアラン・ランキン(アソシエイツ)との共同プロデュース作品も嬉しいものだった(ジョセフKの初のロンドンでのライブはアソシエイツの前座であった)。カッティング・ギターがカッコ良くハンサムなマルコム・ロスは「ポストカード」関連もあり、エドウィン・コリンズのオレンジ・ジュースに加入、そして、アズテック・カメラを経てソロ活動へ。デヴィッド・ウェデルとロニー・トランスはハッピー・ファミリーとして「4AD」で活動。メンバーには後のモーマスことニック・カリーも在籍。ジョセフKは1979年から1981年という短い期間ながら繋がる人脈はもの凄い!彼等の初の全英ツアーの前座はアズテック・カメラであった。「JOSEF K」と名乗る以前のライヴでは、スージー&ザ・バンシーズやクラッシュ、マガジン等とも出演していた。
「ジョセフK」というとフランツ・カフカの小説の主人公の名である。この『IT'S KINDA FUNNY』の映像を拝見すると、オーソン・ウェルズ監督の映画『審判』の場面が使用されている。私はカフカから海外文学を読むようになったこともあり、直ぐにこの「ジョセフK」なるバンドに興味を抱いた。そして、映画もカフカに関するものだと知ると可能な限り観てしまう。この1963年の『審判』の主人公はアンソニー・パーキンスで、あの神経質そうで繊細な雰囲気が好き。また、共演者にはジャンヌ・モローやロミー・シュナイダーもおられるのでお気に入り。
「ジョセフK」はネオアコとかギターポップとも呼ばれるけれど、これらの形容はすべてニュー・ウェイヴ(NewWave)という大きな当時の新しい音楽の波の中で、それぞれが個性的な輝きを放っていた。なので、私は「ネオ・アコースティック」も「エレ・ポップ」もニュー・ウェイヴ作品として、色褪せぬ作品として聴き続けている。今聴いてもまったく新鮮なジョセフKの楽曲たちなのだ。ポール・ヘイグはソロになっても好きなアーティストのお一人でもある。もう「ニュー・ウェイヴ」という言葉すら古いのだろうけれど、あの時期の世界中から溢れ出る若きアーティストたちの音楽。あれはいったい何だったのだろう!!あっさりとセックス・ピストルズは解散してしまい、イアン・カーチスは命を絶った。その後からだけれど、私は10代の多感な時期でもあり青春を共に彼等の音楽たちと過ごして来た。初めて針を置く瞬間、そして聴き入っている刻...あの感動は言葉にできない。彼等の音楽から伝わるものは、若さであり衝動というある瞬間のみに放たれるエネルギーだったと想う。なので、その頃の多くの優れたバンドやアーティストが年月を経て同じ曲を演奏しても違う。けれど、辛うじて、あの時代の空気とエネルギーを感じ取ることができる。残された作品を通じてだけれど、その感動は聴く私も年月を経ているけれど蘇る。素晴らしい!としか云えない。なので、こうしていつまでも大好きなアーティストや作品のことを、拙い想いながらも綴ってゆこうと決めたのでもある。
chouchouでした。
久しぶりでした。mineです。
このところ音響物 TECHNO にどっぷり浸っていたので、バンド演奏自体が久しぶりでした。
BAUHAUS THE SINGLES 1981-1983
THE PASSION OF LOVERS
KICK IN THE EYE
SPIRIT
ZIGGY STARDUST
LAGARTIJA NICK
SHE"S IN PARTIES
冷たく冴えた当時の独特の音が、再びガツンと響いてきました。カッコいい
大切なものを思い出せた感じがして、すごく嬉しくなっています。
BELA LUGOSI"S DEAD / 1979 SMALL WONDER 12inh
引っ張り出しました。
ノスタルジーだからかなあ。。。ゾクゾクしながら聴けました。
色褪せないです。
- mine -